勉強机についている蛍光灯に、オレンジ色の猫のキーホルダーをぶら下げていた。名前をナスという。

 ナスをそこにぶら下げていることに、特に理由はなかった。ただ猫が好きだったのと、微妙な具合のとぼけた表情が気に入っていただけだった。窓を開けると、ひたすらそのあたりをぶらんぶらん回って、まるでじゃれている本物の猫のように動き回った。

 家の者以外滅多に入ってこない部屋に、初めて足を踏み入れたのは部活の先輩だった。彼はそのキーホルダーを見るなり「これはナスゆきえの猫だね」と言った。いまのいままでナスゆきえが何なのか分からない、那須なのか茄子なのか、それが人名なのかどうかさえ定かではない。が、たまたまそのとき「何ですか、それは」と聞き返すのが何となく億劫で、ただ「そうですね」と答えてしまっていまだに後悔している。

 ずっとそのナスが気になっていたので、小さい猫のキーホルダーにナスと名づけていた。ナスがくるくる回るのが面白くて、わざわざ窓を開けっぱなしにして勉強したりしていたぐらいだったが、何故ナスが回っているのが楽しかったのかさえ分からない。不思議なものだ。

 中学三年の夏に、部活で合宿に行っている間に、隣家で火事があり、我が家も僕の部屋が燃えた。合宿所で、お袋が泣きながら電話を入れてきたのを良く覚えている。親父はそのころお袋と不仲で、家を空けがちにしていた。お袋が取り乱しているのに比べて、祖母は矍鑠としたもので、祖母もまた隣家との折り合いが悪かったものだから、墓を潰して家を建てた罰が当たったのだとか、火の始末もできない嫁を取った隣の女将さんの気が知れないとか、言いたい放題であったが、祖母がなぜ孫の電話で悪口を垂れているのかさえよく分からなかった。

 長野の合宿所から帰京するやいなや、元の実家よりはるかに新しく居心地の良い借家に我が家は仮住まいした。何でも火災保険が降りて向こう何年間かは無料で借り受けられるのだという。先祖代々の土地に固執してやまなかった祖母が、手のひらを返したように隣家を罵倒しなくなったので驚いた。それまでは、やれ戦火があっても土地を手放さなかったのは武家の誉れだだの、二世帯住宅は親不孝の物件だだのと文句を言うことだけが生き甲斐の口うるさい婆さんだったのに、現金なものだ。

 しかし、事実上我が家で燃えたのは私の部屋だけである。子ども心ながら、釈然としなかった。幸いにして、子どものころの写真やら記念品やらは全部ほかの部屋にしまってあったので難を逃れたが、やはり私物が山と置かれた自分の部屋が焼かれて嬉しいはずがない。その横で祖母が露骨に嬉しそうな顔をしてウキウキしながら部屋を掃除し、大きな音を立ててせんべいをかじりながらテレビドラマを見てゴロゴロしているのを見ていたら、この婆さんろくな死に方しないだろうなと思った。そうは思ったが、直接口に出すことはなかった。一度祖母と隣家の奥方が口論になったことがあるが、下水から汚水が流れ出るように流暢な江戸弁で豊富な語彙に彩られた祖母の迫力ある罵声を前にして屈辱の涙に暮れる隣家の奥方を見たことのある僕は祖母に口で逆らうことの無意味さを知り尽くしていたのである。

 とはいえ、解体工事中の我が家に行ったところでどうにもならないのは明らかだった。どうせ読まない教科書や、身体に合わなくなってきた制服などを買い直して新学期に備えたが、僕の心残りだったのは部屋に残したまま燃えてしまったであろう書き途中の日記と那須である。当時、左利きのため字が汚くて読めないことをコンプレックスに感じていた僕が、矯正のために書き始めた日記は、ちょうど半年ちょっと前に祖母が誕生日で買ってくれた和紙の赤い表紙でできた立派なものだった。日記なんて気恥ずかしくて書けるものではなかったが、たびたび僕の部屋に祖母が訪れては、日記書いてるかと口うるさく問うてくるので閉口し、なんだかんだで毎日書き続けてきたのである。人間というのは面白いもので、一度習慣になってしまうと最初はどんなに苦労するものであったとしても何の造作もなくできてしまうらしい。いつしか、毎晩寝る前に一時間づつ、三十分は英語の勉強、もう三十分は日記を書くという慣わしとなってしまって、新しい住居に移ってからも大学ノートを自分で買ってきて日記をつけていた。

 まあ、それ以外にもちょうど学校で男女間の交換日記なるものが流行っていて、いつ僕が誘われてもいいようにと期待を持って書き続けているというのもあったが、結局中学を卒業するまで誰一人として僕に交換日記を持ちかけてくる女の子はできなかったというのがちょっとした中学校の思い出ではある。親父も家に帰ってこなくてお袋がさびしそうにしているとか、高校進学を控えているのに成績がなかなか上がらないとか、そういうことも含めてくだらないことをたくさん日記に書き込んでいたから、燃えてくれてよかったという気持ちも心のどこかにあったかもしれない。

 しばらくして、祖母が亡くなった。脳卒中で、あっという間だった。祖母の逝去を知って、ろくでなしの親父が帰ってきた。お袋は親父よりずっと祖母といる時間が長かったし、祖母は口は悪いが嫁姑の不仲というような世間の常識から程遠いほど気楽な付き合いをお袋としていたこともあって、お袋のほうがよほど悲しそうだった。そろそろ借家から新しく立て替えた自宅に戻ろうかというときだったので、せめて祖母が生まれてずっと暮らしたあの土地で死なせてやりたかったと親父が泣いていた。不思議なもので、あれだけ夫婦喧嘩の絶えなかった両親がこういうときだけ同じように打ちひしがれている様子を見ると、かえって冷めた目で、それならはじめから仲良く暮らしていれば良かったのに、と思ってしまっていた。親族が集まって、皆等しく祖母を偲んで泣いているのを傍から見ながら、そうはいっても誰一人祖母の面倒を見ようとは言わなかったじゃないかと心のなかでずっと毒づいていて、僕はとても泣ける気分ではなかった。

 告別式が終わって、祖母の遺品を片付けているとき、僕は何と祖母が青い和紙が表紙の日記帳が鏡台のところに置かれているのを発見して面食らった。家事のこと、隣家の奥方との喧嘩のこと、通っていた文化センターの同級生のことも多少は書かれていたが、大半を占めていたのが僕のことだった。僕が学校に行ったり、バイトに行っている留守の間に僕の日記を読んでいたらしく、親父がこんなだらしなく育ってしまってごめんねとか、早く交換日記をしてくれる女の子ができますようにとか、まるで僕の日記に答えるかのように綿々と書き綴られていたのである。

 しかも、鏡台のすぐ下には、赤い和紙の表紙の、僕の日記帳が出てきた。目を丸くした。僕がつけてた日記帳がここにあるということは、合宿に行っている間祖母は部屋から持ち出して読んでいて、僕の部屋が焼けたから返すに返せなくなってずっとしまっていたのだとすぐに悟った。悪い気はしなかった。そうならそうと早く言ってくれればいいのに、と思うと、僕なりに熱いものがこみ上げてきて、声を上げずに泣いた。

 その一部始終は、きっとナスだけが見ていたのだ。そう思うと、目の前でずっとくるくる動いていたナスが、浮かんできたように感じた。ナスの元に逝ってしまった祖母が、新しい家にまた帰ってくることを祈って、自分の日記を添えて祖母の日記をそっとダンボールにしまった。