昨日、更新したと思っていたログがアップされずに全部消失するという事件があり、燃え尽きて真っ白になっていたため更新が途絶える事態となりご迷惑をおかけしました。

 同じく昨年10月に切込隊長BLOGにてアップした記事を再掲します。

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 土砂降りの雨の中、某会合に出席してきた。

 私たちが語るべきテーマは決まっていた。国際的商取引の中で、いまや枢要な取引項目にまで成長してきた”コンテンツ”関連取引の契約形態とはいかなるものであるべきか、ということであった。

 私は日本人だったが、それ以外の人間の国籍はバラエティに富んでいた。アメリカ人あり、中国人あり、台湾人あり、イギリス人、フランス人、大阪人、熊本人など、さまざまな国から来た金融や会計、法務のスペシャリストたちである。

 あまりにも重厚な話が続いていたために、休憩として途中挟まれている昼食では結構なお国自慢に花が咲いた。食事のこと、結婚観、学歴、隣国差別、スウェーデン外相暗殺事件、オーストラリア人はおしなべてくさいこと、友人としてアメリカ人を持つのは素晴らしいが上司や部下では絶対持ちたくないことなど、明るい話題で盛り上がり、和気藹々とした雰囲気に包まれていた。

 そのとき、とある参加者が国ごとにある究極の選択というものを披露しようと言い出した。ロシアには「シベリア送りになるか、年上のかみさんを持つか」という人生の選択がロシア人男性をおおいに悩ませたという話をして喝采を浴びたが、参加者のうちの一人の女性がロシア系アメリカ人であることに気づいて沈黙が広がった。

 私は、日本の中で良くある例として「カレー味のうんこか、うんこ味のカレーか」という選択があるという話をした。当然、味がどうであれカレーはカレーであり、同じく味がどうであれうんこはうんこなのだから、答えは自明なのだ。だが、日本人には”うんこ味”というのは得体が知れず、確率論的にうんこを食すことによって発生する惨状よりも酷い結論を及ぼす可能性があると言う確からしさが、古来より日本人の頭を悩ませてきたと説明した。

 味がカレーというのは、想像がつくが、その実体がうんこであった場合、しかもそれが他人のものであり、その形状が固形か液状かの別を問わず食したあとの被害は甚大だ。

 味がうんことはどういうことなのか。そもそも、味的に想像がつかないという意見が百出した。"tastes like #%&" というのは、いったい何を意味しているのか。想像がつかないほど#%&なカレーということだろうか。

 要するに、誰も「うんこ味のうんこ」というデフォルトの状態を知らないが故に、うんこ味がカレーという実体に及ぼす影響について、誰一人として判然としなかったのである。食後の休憩時間の50分間のほぼ全てをこの議論に費やしたものの、結論は出なかった。

 再び会議開始のベルが鳴ると、別室で昼食を取っていたグループも本来のコンテンツビジネスの現状に関する議論に参加してきたが、我々のグループは胸の中にわだかまる、大きなもやもやを抱えたままであった。先方の参加者が、ローカライズの話題を始めると、"Italian taste"といった類の表現をする度に、うんこ議論を繰り返していた我々の間から密やかな笑い声が漏れた。

 そろそろ散会という頃合になって、うんこ議論に対して非常に熱心だった若いロシア人男性が「映画ビジネスのローカライズにおいて、公開権を買い付けする会社がその本来の題名を大幅に変更して公開する場合がある。それの場合、著者の意図する表現にどこまで合致させておかなければならないだろうか」という話をし始めた。こちらからすれば、さっきまでうんこについて口角から泡を飛ばして熱く語っていた男である。思わず噴き出してしまう。

 そのとき、不運な他の参加者が言った。「本質とパッケージの問題だから、基本的には権利を買い付けた方がそのセールスの一環としてタイトル権を行使するのは何ら制約されないと思う」。

 本質と、パッケージ。

 当然、参加者の中に

 本質= カレー
 パッケージ= うんこ味

 という図式が、各人の頭の中で即座に完成し、座は半分だけ爆笑に包まれた。「そうだよな、パッケージだもんな」といった、意味不明の同意も込めて。

 ことここに至って、話の分からないもう半分の人たちが、何がそんなに面白いのかと問うてきたので、説明をしてやった。真面目な会議で、しかも書記のいるところで、うんこ味のカレー。議事録はどうなっているのだろう。

 そしたら、先方のモンゴル系中国人が「伝統的に自分のうんこは食う」と言い始め、場が静まり返った。もちろん、おいおいマジかよという視線が参加者同士で交わされたのは言うまでも無い。モンゴル人は、静まった場の中でいった。「モンゴルの冬は乾燥していて寒いもんでね」

 彼はそれでもウランバートル近郊に住んでいたので近代的な暮らしに近かったようだが、冬のモンゴル平原は最高気温がマイナス20度で今日は暖かいね、というような土地柄であり、当然便も住まうテントの中で住人監視の元でする。それはそうだ、外で用を足すわけにもいくまい。寒風吹きすさぶ寒空の中、ちんこ出して小便する気にはとてもなれない。

 そして、彼は子供の頃、胃を強くするという目的で、親に言われて日々自分のうんこを少し喰っていたという。さらに、お湯にといて、あるいは乳にとかして飲んだという。

 参加者一同の口は、一斉に開け放たれ、視線は全て彼に集中した。広がった静寂を破るように、今にして思うと恥ずかしいが、と前置きした上で「うんこって、ニガいんだよ」。

 そうか。にがいのか、うんこ味。うんこ味のカレー、にがいのか。私たちの頭の中にあった、「うんこ味」という不確定性に彩られた、想像の余地のありすぎる甘美な空想の世界は、終わった。

 もちろん、そのにがさを達成するために必要な成分の問題もあるだろう。しかし、その確からしさは大幅に上昇した、しかも、実際うんこを口にしていたという人間の放った重大証言を前にして、私たちの議論は、今ここに収束の時を迎えたのである。

 肩を落とした私たちは、また来週という声もむなしく会議場を後にした。
 さっきまで、土砂降りだった雨は、いつしか夕方の綺麗な夕暮れとなって、暖かい日差しを向けている。空にわずかに残った雲の切れ端は、うんこ型となって夜へと急ぐ東京の向こうへと消えていった。