98年にニフティ・ビジネスマンフォーラムの雑談会議室に書いたもので、何だか知らないが根強い人気を持っていて旧知の友人と出会うと必ず話題になるためとりあえず再録。
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過ぎ行く夏を惜しむかのように野原一面に土筆がはえ、メダカが産卵のために川を登る10月のある日のこと。
「あなた。いい加減起きてくださいな。食事が冷めてしまいます」
雪夫は階下から呼びかける雪子の声を聞きつつ舌打ちした。それどころじゃないんだがなあ・・・。彼の人生の目標は笑えない笑いを追究することであったが、齢40を超えて未だ悟り開く気配すらないことに、雪夫は焦りを感じ始めていた。笑えない笑いは、どこまで追い求めてもやっぱり笑えないのである。
雪夫は妻・雪子にこの崇高な目標を打ち明けることなく日夜精進する毎日であったが、
一つ気がかりなことがあった。
「俺は、お笑いのセンスがないんじゃないか・・・」
その疑念は日増しに強まり、やがて確信に至りつつあった。
しかし、雪夫の顔がソープランドから出てきた日雇い労働者のように晴れやかな表情に変わる転機が、今ここに訪れようとしていた。
窓の外には隣の家の茶色い飼い猫が、スタスタ塀の上を歩く姿があった。彼は、毎日のように雪夫に気兼ねすることなく朝の散歩を楽しんでいるように見えた。
雪子から見れば、彼は単なる猫であり、隣家の主人がフランス書院文庫の影響で猫に対してピエールという名前をつけているというだけのことだったが、雪夫はこの日衝撃的な光景を目撃する。
ピエールは雪夫の視線に気づかず、塀の上で一回ノビをすると、ふところからホープを取り出し、洒落た手付きでジッポを操りふかし始めたのである。
雪夫は思わず窓を開け声をかけた。「君!未成年だろう!」
ピエールは億劫そうに雪夫の方をちらりと見やると、「私、未成年ちがう。俺はフランス大統領直属の指令で日本に来てるスパイ。その証拠に足のつめを切る」
猫は爪切りをどこからともなく取り出すと、器用に足のつめを切り始めた。
雪夫は思った。こいつ、本物だ。船井幸夫は正しかったのだ。
この日から、雪夫はピエールと会話することを毎朝楽しみにするようになっていた。
雪夫は今失業に近い自分の不幸話や、痴漢に間違われてブタ箱に放り込まれたこと、居酒屋の座敷で飲んでる隙に新調した靴を他の客に間違って履いて帰られたこと、学生来の親友が不況の影響で資金繰りにつまり自分に保険をかけて中央線国分寺駅で飛び込み6万人に迷惑をかけたことなど、明るい話題で盛り上がり、ピエールもいつしか雪夫に心を許し始めた。
やがて長い冬が終わり、東京湾に流れつく流氷に乗った白熊が北極圏に帰る仕度を始める5月。バイオリンを持ったコオロギの大群が田畑を荒らし始める季節となると、ピエールは重大な問題を雪夫に投げかけた。
「もはや、フランスはアメリカの帝国主義的世界覇権を容認することはできない」
と前置きをした上で、微妙にひげをゆらしながら続けた。
「そこでまず手始めに自民党を壊滅させ共産党不破政権を樹立した上で、台湾を日本政府の保護下におき、日本は中国に対して朝貢を行って柵封国となり、中国に一国五制度政策を取らせて中国共産党の親米路線を破綻させる計画があるのだ」
このピエールがもらした遠大かつ壮大な計画に雪夫はあっけにとられ、かつ身震いした。なおもピエールは語る。
「そして、中国、ロシア、日本というアジア極東地域三大共産主義国家による軍事同盟を元にアメリカの軍事プレゼンスを消滅させ、NATOもアメリカを排除し、アメリカ大陸と欧州、アジアの三ブロックによる新しい世界秩序を形成しようという構想があり、その目標達成のため巨額の資金がすでにプールされているのだ!」
雪夫はただ漫然と生きてきた己を恥じた。ピエールの崇高な理念と計画性、そして何よりも自分にそんな秘密を打ち明けてくれたことに、大きな衝撃を受けたのであった。
ピエールは「来週にはこの計画を実行するための会議が浅草で開かれる予定だ。ついては、この会議に出るために3千円かかるので貸して欲しい」と雪夫に頼み、雪夫が貸してやると、二度とピエールは雪夫の前に現れなくなった。
雪夫は思った。ああ、ピエールは偉大なフランス人スパイだったなあ。そうだ。俺は、もっと変わらなければならない。彼はそう心に誓ったのである。
二階から降りてきた雪夫の様子が変であることに雪子は気づき、声をかけた。
「あなた、何か変わったことがあったんですか?」
「いや、俺は世界を変える!」
雪子には、雪夫の人生が大きく変わったことに気づく由も無かった。
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過ぎ行く夏を惜しむかのように野原一面に土筆がはえ、メダカが産卵のために川を登る10月のある日のこと。
「あなた。いい加減起きてくださいな。食事が冷めてしまいます」
雪夫は階下から呼びかける雪子の声を聞きつつ舌打ちした。それどころじゃないんだがなあ・・・。彼の人生の目標は笑えない笑いを追究することであったが、齢40を超えて未だ悟り開く気配すらないことに、雪夫は焦りを感じ始めていた。笑えない笑いは、どこまで追い求めてもやっぱり笑えないのである。
雪夫は妻・雪子にこの崇高な目標を打ち明けることなく日夜精進する毎日であったが、
一つ気がかりなことがあった。
「俺は、お笑いのセンスがないんじゃないか・・・」
その疑念は日増しに強まり、やがて確信に至りつつあった。
しかし、雪夫の顔がソープランドから出てきた日雇い労働者のように晴れやかな表情に変わる転機が、今ここに訪れようとしていた。
窓の外には隣の家の茶色い飼い猫が、スタスタ塀の上を歩く姿があった。彼は、毎日のように雪夫に気兼ねすることなく朝の散歩を楽しんでいるように見えた。
雪子から見れば、彼は単なる猫であり、隣家の主人がフランス書院文庫の影響で猫に対してピエールという名前をつけているというだけのことだったが、雪夫はこの日衝撃的な光景を目撃する。
ピエールは雪夫の視線に気づかず、塀の上で一回ノビをすると、ふところからホープを取り出し、洒落た手付きでジッポを操りふかし始めたのである。
雪夫は思わず窓を開け声をかけた。「君!未成年だろう!」
ピエールは億劫そうに雪夫の方をちらりと見やると、「私、未成年ちがう。俺はフランス大統領直属の指令で日本に来てるスパイ。その証拠に足のつめを切る」
猫は爪切りをどこからともなく取り出すと、器用に足のつめを切り始めた。
雪夫は思った。こいつ、本物だ。船井幸夫は正しかったのだ。
この日から、雪夫はピエールと会話することを毎朝楽しみにするようになっていた。
雪夫は今失業に近い自分の不幸話や、痴漢に間違われてブタ箱に放り込まれたこと、居酒屋の座敷で飲んでる隙に新調した靴を他の客に間違って履いて帰られたこと、学生来の親友が不況の影響で資金繰りにつまり自分に保険をかけて中央線国分寺駅で飛び込み6万人に迷惑をかけたことなど、明るい話題で盛り上がり、ピエールもいつしか雪夫に心を許し始めた。
やがて長い冬が終わり、東京湾に流れつく流氷に乗った白熊が北極圏に帰る仕度を始める5月。バイオリンを持ったコオロギの大群が田畑を荒らし始める季節となると、ピエールは重大な問題を雪夫に投げかけた。
「もはや、フランスはアメリカの帝国主義的世界覇権を容認することはできない」
と前置きをした上で、微妙にひげをゆらしながら続けた。
「そこでまず手始めに自民党を壊滅させ共産党不破政権を樹立した上で、台湾を日本政府の保護下におき、日本は中国に対して朝貢を行って柵封国となり、中国に一国五制度政策を取らせて中国共産党の親米路線を破綻させる計画があるのだ」
このピエールがもらした遠大かつ壮大な計画に雪夫はあっけにとられ、かつ身震いした。なおもピエールは語る。
「そして、中国、ロシア、日本というアジア極東地域三大共産主義国家による軍事同盟を元にアメリカの軍事プレゼンスを消滅させ、NATOもアメリカを排除し、アメリカ大陸と欧州、アジアの三ブロックによる新しい世界秩序を形成しようという構想があり、その目標達成のため巨額の資金がすでにプールされているのだ!」
雪夫はただ漫然と生きてきた己を恥じた。ピエールの崇高な理念と計画性、そして何よりも自分にそんな秘密を打ち明けてくれたことに、大きな衝撃を受けたのであった。
ピエールは「来週にはこの計画を実行するための会議が浅草で開かれる予定だ。ついては、この会議に出るために3千円かかるので貸して欲しい」と雪夫に頼み、雪夫が貸してやると、二度とピエールは雪夫の前に現れなくなった。
雪夫は思った。ああ、ピエールは偉大なフランス人スパイだったなあ。そうだ。俺は、もっと変わらなければならない。彼はそう心に誓ったのである。
二階から降りてきた雪夫の様子が変であることに雪子は気づき、声をかけた。
「あなた、何か変わったことがあったんですか?」
「いや、俺は世界を変える!」
雪子には、雪夫の人生が大きく変わったことに気づく由も無かった。